私が外国崇拝をやめたわけ
こんにちは。
今回は少し私自身のこともふまえて、なぜ私が文化に対してクリティカルになったのか、またはなぜその分野に興味を持ったのかという過程を話していきたいと思います。
まず、この記事のタイトルにある通り私は外国崇拝することをやめました。外国といっても特に欧米に対する考え方です。「外国=欧米」という考え方に対しても批判的なので、記事中では欧米ということにします。
ここでゆう崇拝とは、「欧米=かっこいい」というイメージです。かっこいいとは外見ももちろん含まれていますが、外見よりも全体的イメージで見るかっこいいというイメージです。憧れとは少し違い、欧米コンプレックス的の方がニュアンス的には近いと思います。
私は、幼稚園児の時にみたハリーポッターがきっかけで欧米に興味を持つようになりました。小学生高学年の頃は、海外文学、洋楽までに至り興味が広がっていきました。
スクリーンに映る日本ではみたことのない景色や物、食べ物、そして深い掘りと大きな瞳を持った顔立ち、その全てが真新しく新鮮でした。
そこから自然とハリウッド映画に出てくるような欧米人に対して、また欧米そのものに憧れを抱くようになりました。
中学生の頃は、趣味が洋画、特にハリウッド映画、海外ドラマ鑑賞、また洋楽鑑賞でした。
日本のテレビ番組をほとんど見なかった私は、友達がお笑い芸人や芸能人、ジャニーズなどについてワイワイ盛り上がっているころ、その話にまったくついていけなかったことを覚えています。
中学3年生の頃は、憧れのアメリカで一か月間のホームステイを経験しました。海外ドラマで見るようなアメリカの郊外住宅地やスーパーマーケット、金髪で青い瞳を持った人々、全てがキラキラ輝いて見えました。
この一か月のホームステイ体験で私の海外への憧れはさらに膨らみ、高校生の頃は一年間の高校留学も経験しました。
高校留学の体験談などはのちのち違う記事で詳しく書いていこうと思っています。
このように私は幼いころから海外への憧れが強く、海外また欧米崇拝のようなものを無意識にするようになっていました。
このころは、自然と「海外=かっこいい」という認識が自分の中で強く、ハリウッド映画やハリウッド俳優、洋楽などに精通していた自分に己惚れていたんだと思います。
欧米が好きだったこともあり、自然と英語も好きになりました。英語は高校までずっと得意教科でした。高校留学をしていたこともあり、大学進路は語学系や国際系にしか興味が持てず気づけば国際系の学部がある大学に進学をしていました。
大学一年生の頃も海外への憧れはおさまるどころか、膨らんでいく一方でした。
大学二年生になり、研究ゼミを選択するのもハリウッド映画や英語文献を使って研究するというタイトルに惹かれ選択をしました。まさか、このゼミで私の考え方が180度変わるなんて思ってもいませんでした。
わたしのゼミの研究内容は、フェミニズムとカルチュラルスタディーズでした。
フェミニズムでは、主に国内外の映画や論文を用いて研究を深めていきました。映画の中で描かれる女性像、またそれがどう現代社会に影響をもたらしているのかなど様々です。
カルチュラルスタディーズでは特に文化帝国や文化の盗用について学びました。
このように、私はゼミを通して社会問題や文化を批判的に見ながら研究を進めてきました。
そうすることで、自分が今まで当たり前とおもっていた物事を新しい視点から見つめてみることがでるようになりました。
また女性として、日本人として、また自1人の人間としての自己アイデンティティの確立が出来たことで、自分自身に誇りを持つことができるようになりました。
その自己のアイデンティティの確立が、欧米崇拝をやめるきっかけとなったのです。
考えてみてください。私の人生をたどってみると、小学生の頃に見た洋画をきっかけに私の頭は欧米色に染まり、欧米を崇拝するようになりました。そして自然と英語も好きになり、そのまま大学も国際系に進学をするという、欧米いや特にアメリカの文化帝国にまんまと自分が支配されていたのです。
今まで何も考えず、何も疑わずただただ憧れから今までの人生を歩んできました。
考えてみたらぞっとします。
アメリカの文化(ここでは映画)がどれだけの強力なパワーを持っているのか驚かされます。ハリウッド映画が英語を学ぶモチベーションになり、1人の人生を動かすツールにもなるのです。
考えてみれば、私たちは幼い頃からなにも疑わず強制的に英語を学ばされています。国語や歴史などと変わりない単に一つの教科として、、、。
しかし、ふと考えてみたらなぜ私たちは英語を学ばなくてはいけないのか、なぜ英語なのかと思いませんか?
そこに文化帝国主義のパワーが隠されているのです。
それを知った時の私は、今まで信じて生きていたものが180度ひっくり返された気持ちになりました。
考えてみれば、ハリウッド映画も幼い頃から簡単に消費できるものでした。テレビをつければ必ずどこかでアメリカのテレビ番組は視聴可能ですし、映画館に行けば上映中の映画の半数以上がハリウッド映画ですよね。また町やショッピング街を歩けば、洋楽が至るところで響き渡っています。
日々の暮らしの生活を振り返ってみたら、至るところで欧米の支配的なパワーに気がつくと思います。
私が書いていることは全て、ゼミで研究するまではこれが当たり前だと思っていました。当たり前のことすぎて、私の生活と一体化していたためこんなこと考えてもみませんでした。
またそれ以上に、私たちはアメリカの映画のパワーがどれだけの偏見を生み、ステレオタイプを創り出しているのかにも驚かされます。
分かりやすい例でいうと、ディズニーのクラシック映画などなあげられると思います。
弱いプリンセスとそれを助けにくる強い王子様。このディズニーか描く典型的なストーリーラインが、女性差別や偏見を生み出したことは事実です。
映画を観るという行為は受け身の行為です。ただの娯楽として何気なく観ている映画に、疑問や違和感を持つ暇も与えないほどに、映画というものは視聴者を引きつけます。よってそんなこと考えもしないのです。
気づかないこと、それが一番恐ろしいことではないかと思います。
話を戻します。
なぜ私が外国崇拝をやめたのか。
それは支配的アメリカ文化にまんまとはまっていた自分が嫌になったという自己満足的な気持ちからももちろんあります。
しかし、それ以上に当たり前であったもの (ここではアメリカ文化) に対して足を一歩引いて見つめなおしてみることで、今までと違った見え方ができたからです。
そうすることで、崇拝という考えがいかに浅はかで、脳無しだったことかに気づいたのです。
また、それまた以上に日本人としての誇りを持てるようになったのです。
ゼミを通して、一番学んだことは「考えること」です。そして、物事に疑いをかけてみることです。
そうすることで、見方が180度変わってきます。
ゼミはそのようなことを私に教えてくれました。
この記事でなぜ私が欧米文化をクリティカルに見るのかが分かってもらえたら嬉しく思います。今後の記事では、具体的なケーススタディーのような形で書いていけたらと思っています。