映画が秘める危険性 映画の裏を読む
映画というものは国や老若男女問わず、誰でも簡単に楽しめる世界中の庶民の娯楽の一つです。
私の場合、何の予定がない週末や休みの日は大体映画館へ足を運ぶか、家でのんびりNetflixを観るのが日課になっています。
今ではアマゾンプライムやHulu、Netflixに会員登録をして家で映画を観る人も多いのではないでしょうか?
2017年度の国内の有料動画配信サービス利用者数の内訳は、見放題の定額制サービスが1,190万人と発表されています。
一方、映画館に関して2017 年度の映画館入場者数は約1億7500万人と発表されています。日本の人口1憶2000万人に対してのこの数字はかなり大きいものと思います。
これからもわかるように、映画は多くの方から楽しまれています。また、現代は映画館だけでなく家でも簡単に映画を消費することが可能です。
私たちは映画が描く非現実的な世界観から想像力や夢を膨らませることができます。日々の日常から自分を引き離すことで、疲れを癒したりストレスを発散することもできます。
また、映画は人々に夢や感動、時には人生における教訓を与えてくれます。映画が人の心を動かし、1人の人生を変えることもできます。
しかし、映画を観ることは良いことばかりなのでしょうか。
私のブログの目的でもある
「考える」「疑いをかける」「裏を読む」
裏を返せば映画のダークな部分が発見できるのではないでしょうか?
よって今回は、映画をテーマに映画のダークな部分について書いていこうと思います。映画の持つ影響力を知ってもらった上で、今後の記事で文化帝国などと絡めて書いていこうと思っています。
先日、家族に勧められて映画『永遠の0』を鑑賞しました。
映画を見終えた頃には、私は息ができないほどに号泣をしていました。
映画の最後に流れるサザンオールスターズの「蛍」に不意を打たれてさらに涙が止まりませんでした。
しかし、映画の余韻に浸りながら自分を落ち着かせ、冷静に戻った私は変な違和感を覚えました。
永遠の0 平成最後の夏だからこそ、見ておきたい名作映画!|神アニメランキング!虹見式(二次見式)おすすめアニメ・アニソン・ラブコメ・異世界・原作マンガ・人気声優を紹介するメディア
映画「永遠の0」は2013年に公開されました。この映画は現代から第二次世界大戦まで記憶を遡っていくことで話が展開していきます。岡田准一の演じる宮部久蔵のは零戦の天才パイロットであり、またパイロットの中で一番の臆病者とも言われていました。それを耳にした宮部の孫である佐伯健太郎が臆病者であった宮部がなぜ特攻隊に志願して帰らぬ人となったのか、その理由を見つけることでストーリーが展開されていきます。
「娘に会うまで絶対に死なない」という妻と約束を交わした宮部は、その約束を果たすため、自分の命を大切にして守ることで臆病者と呼ばれていました。
しかし、そんな宮部が特攻隊のパイロットの教官という立場になったことで、特攻隊として死なせるための教育をしていながら自分だけが助かってもいいのか、自分だけが生き延びてもいいのかという気持ちを抱き始めます。
そこで宮部は特攻隊への志願を決意します。
そして特攻隊として出撃する当日、自分の零戦と部下の零戦を無理やり交換します。特攻により宮部は命を落としますが、部下はエンジン不良により帰還しました。宮部はエンジン不良であることを見抜いており、部下の命を救うために意図的に零戦を交換したのでした。
この映画は特攻隊兵士の苦悩や家族愛から視聴者の共感を訴えかけることで、多くの国民に感動を与えました。映画の受賞歴や、興行収入においても共に大きな快挙を上げています。また2015年には向井理主演としてテレビドラマ化もされました。
しかし、この映画の裏を読み取ってみると映画の意外なメッセージが見えてきます。
この映画は、戦争の悲惨さや不条理、または家族愛を訴えかけ視聴者の共感や涙を誘い込むことで、国のために命を捨てる行為を美しいものとして肯定し、それをロマンチシズムが残る戦争賛美のような描き方をしています。
また特攻隊員の悲劇や苦悩、人間性の素晴らしさなどを強調することで特攻という作戦を肯定し、戦争を起こした日本の加害性を薄めているような見方もできます。
つまり、第二次世界大戦時の日本帝国を賛美し美化しているという見方です。
映画評論家の佐藤忠男さんは自身の著書『映画をどう見るか』で、映画は「自惚れ鏡」という表現をしています。
自惚れ鏡とは、江戸時代従来の和鏡に対してガラスに水銀を塗った懐中鏡またはビードロ鏡として女性に親しまれていました。
辞書中では自惚れ鏡とは「容貌が実際よりも美しく映るところからいう」と説明されています。
つまり、映画とは自国にとって都合の良いように、真実や歴史が美化されて描かれるということです。
例で『永遠の0』を挙げたように、戦争もの映画やの歴史映画を考えてみたらわかりやすいと思います。
自国の都合の良いように映画を通して自国を美しく見せようします。
戦争ものや歴史映画に限らず、自国を映し出す映画はどんな映画でもそうです。
前回の記事でも触れましたが映画を観るという行為は受け身の行為です。視聴者に「考える」暇を与えないほどに視聴者を映画の世界に引き込むことができます。
永遠の0を見終えた私のように、視聴者は完全に映画の主人公に感情移入され最終的にはすっかり主人公に自己投影をしている人も多いのではないでしょうか?
よっていくらその映画が美化されているのかなかなか気づきにくいものです。
映画は言ってしまえば一つの世界また国ともいえるのではないでしょうか。外界から隔離された限界のある世界です。
映画やメディア研究をするノッティンガム大学の教授ポール・グランジは自身の論文”Memory and Poplar Film"で映画のパワーについてこう述べています。
"as a technology able to picture and embody the temporality of the past, cinema has become central to the mediation of memory in modern cultural life"
「テクノロジーが過去の一部または一時的な過去を巧みに表現し具体化することできるようになるにつれ、映画は現代の文化的生活における記憶の媒介の中心となった」と述べています。
https://www.researchgate.net/publication/306092382_AN_ANALYSIS_OF_STEREOTYPE_AND_AGENDA_SETTING_THEORIES_IN_THE_PORTRAYAL_OF_MUSLIMS_IN_THE_KING
つまり、映画がどれだけ人々が文化的認識や記憶の構築をするうえでパワフルなものか、また大きな影響を与えているのかということです。
なので視聴者が映画の世界が一つの世界、それが全てと思うことも少なくないとおもいます。映画が国を代表しているようなものといっても過言ではないでしょう。
しかし、このように映画が生み出すダークなメッセージは、自国を映し出す「自惚れ鏡」だけではありません。
映画は、必ずしも自国を映し出すとは限らないからです。ある国が他国を舞台にして映画を製作する場合や他国の文化や人物を取り入れるもあります。
ここにも映画のダークなメッセージが隠されています。
私のブログは主にここが大きなテーマになると思います
では、自国ではなく他国を映し出すことにどのような危険が隠されているのでしょうか。
前にも述べたように、映画は一つの世界を創り出しまた国を代表することができます。
それは、一つの国が事実や不実に関わらず想像上である国を自由に描き出すことができるということです。
つまり、一つの国がある国のステレオタイプを形成することを可能にします。また映画はすでに存在するステレオタイプを助長する影響力があります。
分かりやすい例を挙げると、かなり昔の映画ですがあのオードリー・ヘプバーンが演じる有名な1961年に公開された『ティファアニーで朝食を』でも日本人がステレオタイプを助長するような描かれ方がされています。
ミッキールーニーが演じた映画のキャラクター、ユニオシは背が低く眼鏡をかけ、出っ歯であるという典型的な日本人のステレオタイプそのものです。
これは人種差別であったとかなり批判を受けています。
最近の欧米のハイスクールドラマでも、日本人に限らずアジア人は眼鏡をかけて真面目な生徒として描かれているのをよく目にします。
このように、映画が映し出す世界が人々のマインドをコントロールすることでストレオタイプを助長する危険性があります。
序盤で述べたように映画は人々の考え方に大きな影響を与えることができます。
それは、人々に生きる希望や夢を与えることもできる一方で人々に虚構の世界を映し出し、不実の情報を与えることもできます。
それを私たちは常に頭の中に入れておく必要があります。ただ受け身態勢で映画の情報や映画で描かれる世界を鵜呑みにするのではなく、疑ってみることは、とても重要なことだと思います。
今回は、映画という大まかなテーマで映画を批判的に見ていきました。研究までには至りませんでしたが、これを通して映画がどれくらいの影響力を持っているかを知ってもらった上で今後の記事では、文化帝国主義やさらに一つの映画をテーマとした記事なども詳しく書いていこうと思っています。
cite
- 定額制動画配信の'17年利用者は1,190万人。Amazon最多、2位Hulu。ICT総研調査 - AV Watch
- http://www.eiren.org/toukei/img/eiren_kosyu/data_2017.pdf
私が外国崇拝をやめたわけ
こんにちは。
今回は少し私自身のこともふまえて、なぜ私が文化に対してクリティカルになったのか、またはなぜその分野に興味を持ったのかという過程を話していきたいと思います。
まず、この記事のタイトルにある通り私は外国崇拝することをやめました。外国といっても特に欧米に対する考え方です。「外国=欧米」という考え方に対しても批判的なので、記事中では欧米ということにします。
ここでゆう崇拝とは、「欧米=かっこいい」というイメージです。かっこいいとは外見ももちろん含まれていますが、外見よりも全体的イメージで見るかっこいいというイメージです。憧れとは少し違い、欧米コンプレックス的の方がニュアンス的には近いと思います。
私は、幼稚園児の時にみたハリーポッターがきっかけで欧米に興味を持つようになりました。小学生高学年の頃は、海外文学、洋楽までに至り興味が広がっていきました。
スクリーンに映る日本ではみたことのない景色や物、食べ物、そして深い掘りと大きな瞳を持った顔立ち、その全てが真新しく新鮮でした。
そこから自然とハリウッド映画に出てくるような欧米人に対して、また欧米そのものに憧れを抱くようになりました。
中学生の頃は、趣味が洋画、特にハリウッド映画、海外ドラマ鑑賞、また洋楽鑑賞でした。
日本のテレビ番組をほとんど見なかった私は、友達がお笑い芸人や芸能人、ジャニーズなどについてワイワイ盛り上がっているころ、その話にまったくついていけなかったことを覚えています。
中学3年生の頃は、憧れのアメリカで一か月間のホームステイを経験しました。海外ドラマで見るようなアメリカの郊外住宅地やスーパーマーケット、金髪で青い瞳を持った人々、全てがキラキラ輝いて見えました。
この一か月のホームステイ体験で私の海外への憧れはさらに膨らみ、高校生の頃は一年間の高校留学も経験しました。
高校留学の体験談などはのちのち違う記事で詳しく書いていこうと思っています。
このように私は幼いころから海外への憧れが強く、海外また欧米崇拝のようなものを無意識にするようになっていました。
このころは、自然と「海外=かっこいい」という認識が自分の中で強く、ハリウッド映画やハリウッド俳優、洋楽などに精通していた自分に己惚れていたんだと思います。
欧米が好きだったこともあり、自然と英語も好きになりました。英語は高校までずっと得意教科でした。高校留学をしていたこともあり、大学進路は語学系や国際系にしか興味が持てず気づけば国際系の学部がある大学に進学をしていました。
大学一年生の頃も海外への憧れはおさまるどころか、膨らんでいく一方でした。
大学二年生になり、研究ゼミを選択するのもハリウッド映画や英語文献を使って研究するというタイトルに惹かれ選択をしました。まさか、このゼミで私の考え方が180度変わるなんて思ってもいませんでした。
わたしのゼミの研究内容は、フェミニズムとカルチュラルスタディーズでした。
フェミニズムでは、主に国内外の映画や論文を用いて研究を深めていきました。映画の中で描かれる女性像、またそれがどう現代社会に影響をもたらしているのかなど様々です。
カルチュラルスタディーズでは特に文化帝国や文化の盗用について学びました。
このように、私はゼミを通して社会問題や文化を批判的に見ながら研究を進めてきました。
そうすることで、自分が今まで当たり前とおもっていた物事を新しい視点から見つめてみることがでるようになりました。
また女性として、日本人として、また自1人の人間としての自己アイデンティティの確立が出来たことで、自分自身に誇りを持つことができるようになりました。
その自己のアイデンティティの確立が、欧米崇拝をやめるきっかけとなったのです。
考えてみてください。私の人生をたどってみると、小学生の頃に見た洋画をきっかけに私の頭は欧米色に染まり、欧米を崇拝するようになりました。そして自然と英語も好きになり、そのまま大学も国際系に進学をするという、欧米いや特にアメリカの文化帝国にまんまと自分が支配されていたのです。
今まで何も考えず、何も疑わずただただ憧れから今までの人生を歩んできました。
考えてみたらぞっとします。
アメリカの文化(ここでは映画)がどれだけの強力なパワーを持っているのか驚かされます。ハリウッド映画が英語を学ぶモチベーションになり、1人の人生を動かすツールにもなるのです。
考えてみれば、私たちは幼い頃からなにも疑わず強制的に英語を学ばされています。国語や歴史などと変わりない単に一つの教科として、、、。
しかし、ふと考えてみたらなぜ私たちは英語を学ばなくてはいけないのか、なぜ英語なのかと思いませんか?
そこに文化帝国主義のパワーが隠されているのです。
それを知った時の私は、今まで信じて生きていたものが180度ひっくり返された気持ちになりました。
考えてみれば、ハリウッド映画も幼い頃から簡単に消費できるものでした。テレビをつければ必ずどこかでアメリカのテレビ番組は視聴可能ですし、映画館に行けば上映中の映画の半数以上がハリウッド映画ですよね。また町やショッピング街を歩けば、洋楽が至るところで響き渡っています。
日々の暮らしの生活を振り返ってみたら、至るところで欧米の支配的なパワーに気がつくと思います。
私が書いていることは全て、ゼミで研究するまではこれが当たり前だと思っていました。当たり前のことすぎて、私の生活と一体化していたためこんなこと考えてもみませんでした。
またそれ以上に、私たちはアメリカの映画のパワーがどれだけの偏見を生み、ステレオタイプを創り出しているのかにも驚かされます。
分かりやすい例でいうと、ディズニーのクラシック映画などなあげられると思います。
弱いプリンセスとそれを助けにくる強い王子様。このディズニーか描く典型的なストーリーラインが、女性差別や偏見を生み出したことは事実です。
映画を観るという行為は受け身の行為です。ただの娯楽として何気なく観ている映画に、疑問や違和感を持つ暇も与えないほどに、映画というものは視聴者を引きつけます。よってそんなこと考えもしないのです。
気づかないこと、それが一番恐ろしいことではないかと思います。
話を戻します。
なぜ私が外国崇拝をやめたのか。
それは支配的アメリカ文化にまんまとはまっていた自分が嫌になったという自己満足的な気持ちからももちろんあります。
しかし、それ以上に当たり前であったもの (ここではアメリカ文化) に対して足を一歩引いて見つめなおしてみることで、今までと違った見え方ができたからです。
そうすることで、崇拝という考えがいかに浅はかで、脳無しだったことかに気づいたのです。
また、それまた以上に日本人としての誇りを持てるようになったのです。
ゼミを通して、一番学んだことは「考えること」です。そして、物事に疑いをかけてみることです。
そうすることで、見方が180度変わってきます。
ゼミはそのようなことを私に教えてくれました。
この記事でなぜ私が欧米文化をクリティカルに見るのかが分かってもらえたら嬉しく思います。今後の記事では、具体的なケーススタディーのような形で書いていけたらと思っています。
ブログについて
はじめまして。
ブログ初心者なものでどこから何を書いていけばいいのか分かりませんが、これからコツコツとマイペースに更新していこうと思います。
ブログの方向性については、自分的にダラダラ日々のことについて書くのは嫌なので、なにか意味のある誰かに共有したい、面白いと思ってもらえそうなことについて書いて行こうと思っています。
私は平凡な大学生です。
平凡というより、バカで何も考えていないような大学生です。ですが、自分のゼミがきっかけで興味をもてる分野を発見し、積極的に日々論文を読んだりしています。
分野的にゆうと、比較文化や映画研究などです。
なので、ブログの方向性でいうと基本的には海外の文化や映画研究です。
ですが、私はそれをあえて批判的にみていきます。
大学生になって論文を書くようになってきづいたことは、日本語の論文は英語の論文と比べると明らかに数が少ないことです。世界に存在する論文の80%以上は英語で書かれています。
つまり、英語の読解が出来なければこの世に存在する情報や知識などを習得できないということです。
特に文化面でいうと日本はホモジーニアスな国家であるため、民族や文化の衝突には鈍く海外特にアメリカなどがより敏感であると思います。そうなると、やはり文化に関する論文は日本語でなかなか探せないものです。
なので私のブログでは、英語の論文なども基に日本語ではなかなか探せないみんなに知ってもらいたい情報を含めていこうと思います。
読者の方が面白い、なるほど、知らなかったと思ってもらえるようなブログを書いていくことが私のゴールです。
平凡なバカな大学生ですが、そんなバカでもちゃんと考えていることはあるので、そこを少しづつ文字に起こして発信していけたらなと思います。
よろしくお願いします。